2010-03-27 14:27:02
Yokoso!はんなりほっこりアキバでちゅ

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 海外からの旅行者が増えると、一国の経済が潤う、というのは、その言葉のお通りだとおもいます。実際に日本でも、そうした国土交通省(と関連する外郭団体)が主導をとった「ようこそジャパン」キャンペーンが、ある程度の成果を上げているような気がします(コストベネフェットについては調べていませんが。)。

 僕のアジアの各国の友人たちにききますと、それぞれの国で「日本文化」が親しまれていることは間違いないようです。俗に言う歴史問題といったものは、極度に政治的要素を絡むことが多いわけですが、そういったものではなくて、純粋にこの数十年のうちにでてきた、「近代日本文化」といいましょうか、そういったものをここではさしています。そうですね、たとえば、アニメ、漫画のようなサブカルチャー、オタクカルチャーといったもの、それから、DHCなどのブランドが展開していますがそうした健康サプリメント、資生堂などの化粧品。これらは、ある企業や産業からの商品ということもできますが、そういったものの背景に「日本のものだから」という文化的な背景があるような気がします。
 よく、日本は小型化が得意で、アメリカは自動生産化が得意で、欧州先進国は創造性が豊かであるなどと、経営的には漠然と証明もなくみられますが、日本もある程度は、創造性があるということになりますでしょうか(笑)。

 っと、話がそれましたが、こうした「近代日本文化」は「ユニバーサルエンターテイメント」となって、輸出に成功しました。さて、そうなりますと、逆のベクトルとしての「ようこそジャパン」に如何に、これが影響するかということだと思います。能や京都や歌舞伎やそういった「伝統的日本文化」としてのオールドな「ユニバーサルエンターテイメント」にプラスしていかにこの新しいユニバーサルエンターテイメントがさらに上積をするかということになりますね。
 ただ、いまの官主導の「ようこそジャパン」しかり、民間企業がおこなう日本への留学キャンペーン、旅行キャンペーン等々、こういったものは、ほとんどが、オールドなものに依拠しているような気がします。それよりも、もっと新しい「ユニバーサルエンターテイメント」に重きをおいてもいいのではないかなと思うわけです。
 実際に、外務省が、「秋葉原カルチャー3人娘」のようなもの(?でしたでしょうか、女子高生とメイドさんとなにかのコスプレだったような気がしますが)をうちだして、海外で好印象をあたえる「秋葉原」を軸としたカルチャーを目玉にだして、日本ブランド力をあげることを試みましたが、いろいろと、政局の不安定な時期も重なり、ぽしゃってしまったような感じだったことを記憶しています。
 はたして、外務省のやりかたがよかったのか悪かったのかは、精査しなければわからないものですが、それはともかく、一般的に新しいものに対して「出る杭はうたれる」という日本のもうひとつの文化が悪影響を与えているのではないかなと思うところが多いですよね。この「出る杭はうたれる」が「伝統的日本文化」に内成要因として発生していることが問題がありそうなきがします。


 はてさて、ではまずは、一般的に誤っているとしにくい要素をまとめてみましょう。最終的に「日本ブランド」向上か、より細かく「海外旅行者」の増加としてもいいでしょう。

「伝統的日本文化」=「オールドユニバーサルエンターテイメント」
「近代日本文化」=「ニューユニバーサルエンターテイメント」
「ユニバーサルエンターテイメント」の輸出→「日本ブランド」の向上
「日本ブランド」の向上→「海外旅行者」の増加

と前提をおきまして、次に、問題となる内成要素の議論を加味します。

「伝統的日本文化」は「出る杭はうたれる文化」を含む。
∴「伝統的日本文化」の重視→「近代日本文化」の軽視

難しい計算は抜きにして、簡単に記号化してしまうと、
A=C of A
B=C of B
C↑ → X↑ → Y↑
A↑ → B↓
なので、
C(of A + B)↑ → X↑ → Y↑

ですよね。だから、一番下の式で簡単にイメージできるように、「伝統的日本文化」と「近代日本文化」がトレードオフの関係になってしまう。


うん、これは、最初の日本、米国、欧州先進国の特性にもどってしまいますが、日本は創造性がないのではなくて、創造性を悪徳、新しいものへの批判が強いのだとおもいます。それもふくめて(新+旧)、日本文化なわけですから、否定すべくもありませんが、重要な示唆は、「伝統的日本文化」も重視し、「近代日本文化」も重視することは、日本においてはやるべきではないということなのだと思います(他国では、オールドもニューもトレードオフではなくともに展開することができるのかもしれません)。

そうした前提であれば、「京都文化いいよ~~」、といいながら、一方で「秋葉原文化いいよ~」ということがなくなるでしょう。ブログをご覧のみなさんも容易に創造できるかとおもいますが、「京都文化」と「秋葉原文化」ともにそれぞれに携わっている人は、共感する部分が少ないような気がしてなりませんね(笑)。

もちろん、片方の文化を切り捨てるということではなくて、それは市場の様子から、セグメンテーションすべきであるとおもいます。Resource Aと Resource Bがあって、それぞれの保有についてがトレードオフであっても、販売先となる市場ではトレードオフというよりもむしろセグメンテーションされているだけであろうと思います。
だから、そこで必要なのは、これをしっかりと振り分ける技術(≒Capabilities)ですね。


国主導でもかまいませんから、「文化」というひとくくりではなく、しっかりと、Resource A(伝統的日本文化)と Resource B(近代的日本文化)にわけること。そして、その調達、生産の経路は確実に分けること。次に、海外市場での文化展開(市場販売)の際に顧客セグメンテーションし、各Resourceから生産された「sophisticated cultural products or services」の投下については、経路を分けるか統合するか(ある程度のレベルで)市場調査をして検討すること(むしろ、そもそも別の産業industryから発生しているものなのだから、文化ということで曖昧にひとくくりにされること自体が間違っているような気もしますが)。



これらのことが、問題点として理解されていることと、出来ることは異なりますね。以前のブログでdifficulty とfeasibilityの区別を書きましたが、こうした、上述の一連の話題が問題点として検討・精査がなされていないとするならば、これは、僕がひとつ議論したいところであります。外務省さん、国土交通省さん、よろしくお願いします!


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2010-03-24 14:27:47
理想解としての戦略、妥協解としてのビジネスモデル

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中国市場でのグーグルの話題が盛り上がってきましたね~。ついに、という感じなのか、最初から想定されていたのか、面白いところではあります。百度(バイドゥー)もグーグル撤退検討の報道発表以降、株価を数十%も上げていますし、中国市場での版図に影響はでますよね。グーグルについては、先週時点での話ですが、チャイナネットのほうのブログに記事としてあげておきましたので、もしよろしければ参照ください。

先日、コンサルティングの新しい案件をいただきました。もちろん、詳細については非公開になってしまいますが、ビジネスモデルの構築というのは、執着してはいけないなぁと思うことが多いです。

これは、経営学でもはっきりした答えはないもので、「ビジネスモデル」というのがあります。ある人は、成功経験がroutines(ルーチン:成功の複製と繰り返し作業)となり、routinesの束がビジネスモデルということもあります。でも、routinesは、新しいことへの挑戦は弱いので、却って弱みになってしまったりします。
もうひとつが、「戦略」ですね。これは、もうちょっと大局的な概念なのですが、これと、ビジネスモデルを結合させようという試みが学術的にはあります。そして、完全に「美しく」結合できた分析視角はまだ存在していないようです。



はてさて、その意味で、ビジネスモデルっていうのは、戦略をともなっていない可能性があるわけです。つまりひょっとしたらオペレーションレベルで「たまたま成功したもの」である可能性が高いんですね(これを、たまたまではなく、統計的に有意水準をだして処理できれば、経営学に入ってきます。)。だからいまのところ、経営学で分析出来るのは、戦略であって、ビジネスモデルではないといえます。たとえば、日本で、餃子の王将がPRやローコスト、低価格帯商品、人事管理フランチャイズなどなどをうちだして、成功していますが、これは、僕としては、戦略ではなくてビジネスモデルに近いなぁとおもっています。



コンサルタントとして悩むのは、ビジネスモデルを紹介するのか、戦略を提示するかということですね。ビジネスモデルは実際に利益をあげる形をつくっていくことでありますから、経営者の方にとってはまさに「飛びつきたい!」ものであります。でも、「墜落」の可能性も否めないものであるわけです。たとえば、僕がコンサルティングの一環として、ひとつの販売チャネルを紹介したり、その指標をだしたりする、これは、ビジネスモデル構築のための一部手続き的なものですよね、本当に戦略なのであれば、その企業そのもの是非を根底から考えなおさなければならない。でもですよ、コンサルタントは、創業のときからその企業にいたわけではないので、その根底から考え直すという作業は、結局のところ経営者の方に委ねられますね。




まー、このあたりは、多くのコンサルタントの方が苦慮し、また経営者がいかにコンサルタントを活用するかというエージェント問題なのでしょう。話をもどしまして、というかすこし飛躍させます。
ビジネスモデルには、戦略とのかかわりではなくて、もうちょっと違う側面があります。それは・・・「華やかさ!」です。ビジネスモデルは比較的静的な概念なので、成功しているものは「華やか」であります。営利企業でいえば、お金の匂いがぷんぷんするような、それでいて、社会からも羨ましがられるようなモデルなんですね。
だから、僕としては、「戦略」との結合に苦慮しながらも、この華やかな「何か」をつくっていくのが楽しいなと思うわけです!



最近は、僕について担当していることは、中国市場での「メディア、広告、情報通信、サブカルチャー、貿易」に絡んだ業務が多いのですが、どれもこれも、「戦略」は次の問題で、ビジネスモデルにしたいという獰猛さが楽しいです。日系企業の強みというのを、見極めるのは難しいところではありますが、日系獰猛ベンチャーの中国市場での活躍がまもなく日本の各メディアをにぎわすとおもいますよ!まっていてください!!!!


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2010-03-23 04:14:05
言葉は武器で、武器には精錬が必要だ

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中国料理で辛さの呼び方はざっくりと大きく分けて2種類ありますね。麻(マー)と辣(ラー)です。
前者はピリピリする、ひりひりする感じの物で、ちょうど山椒のようですね。後者は、唐辛子のようなツーンとくるような辛味です。どちらも、まったく異なるものなのに、日本語では「辛い」となってしまうわけです。
言語ですから、言語が成立、発展する時代が長ければ、その単語があてられるわけですが、日本には、このマーもラーもなかったということですね。もしくは、あったけれども、それを「辛味」として料理に積極的に使ってこなかったので、マーもラーも区別がないわけです。

それと同じように、たとえば、「わび」とか「さび」なんていうのは、外国語に翻訳しにくい言葉の代表格ですよね。相手の言語の説明領域にその言語にあたる感覚が伝統的になかったのならば、それは一単語で翻訳出来ないわけです。

その流れで、ちょっと思ったのが、最近のネット上の用語、これについて、日本語にできないかというものです。たとえば、ヴァーチャルリアリティーという言葉。仮想現実などといわれるけど、それは、仮想と現実という2単語をあわせたものが訳としてあてられています、んーー、これを、ばしっと決め込みたい。
そうですね、「電実」なんてどうでしょうか。機械や電子、電脳上の世界なわけですから、電気の作用があって、その上の「実世界」や「現実」なわけです。だから、「Virtual Reality=電実」。


こうやって、新しい言葉を決めることは、その昔、多くの先人達がやってきたことですが、最近は、日本国民の識字率の上昇、英語の一般教育化とともに、外来語をそのままカタカナとして使用することが多いのではないかと思います。もちろん、そのまますたれていくような類のものは、カタカナ外来語のままで、よろしいでしょう、でも、使用されるようになり、その歴史が長くなり、そして概念的にも日本文化と親和性が高く、十分に今後の浸透性を考慮出来るような類の言葉には、改めて、日本語をあてなおしてみるということはどうなのでしょうか。
昔は、カリスマ的インテリゲンチャのひとりが、バシッと外来語から、それを「適当に」翻訳して日本語にあててしまい、それが流布して日本語になったわけですね(例:「経済」とか)。そして、戦後マスメディアの発達とともに、いままではそれを担当するのが多くは新聞、雑誌、テレビ等であったわけです。はてさて、インターネットの発達とともに、放送から通信へと情報の社会フローがシフトしてきました。
そして、ブログや、ツイッターといったソーシャルメディアが注目され始めてきました。ここいらで、ちょっくら、ソーシャルメディアとして、みんなで、ぶつぶつ、とそうした新語について、再定義をしてもいいですし、そうする資格が、マスメディアから個人の集合体へと移ってきたのを認識する必要があるのかもしれません。



いろいろ考えてみるのは面白いですよね。
そうだなぁ、たとえば、、、、
インターネットを、西洋的概念から、そのままWEBとして考えるのではなく、日本語的に、情報の連結体であって、その新しい不可視の層や界として、「報界」とかに訳してしまうとどうでしょう。。。なんか最初はしっくりこないわけですが、しだいに、言葉のうまみがわかってくるような味わいにしたいものです。
「インターネットを使って、ヴァーチャルに受講体験」なんていうのは、「報界で電実的受講体験」となるわけですなww


ほかにも、たくさんの言葉を吟味して、中国語とは異なって意訳を伴わず音訳がそのままできてしまう便利なカタカナ外来語の使用から、純日本語への整理が必要なんじゃないかなぁなどと思いました。


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2010-03-21 12:21:33
国賊批判回避ルーチン

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ちょっと過激な表現ですが、、「非国民だ!」とか「この国賊ものがっ!!!」なんて言われ方をしますよね。いや、とくに僕が言われたわけではないんですけどねww。
今後、僕が、いろんなところで文章なり、発言なりをしていると、とくに「国家とはどうあるべき!」なんて語ったりしたときには、こういったご批判をうけそうなので、先だって「そもそも国賊ってなんだろう?」と考えてみることにしました。理論的防衛ラインということです!



 国賊を辞書で調べると、「国を乱す者。国に仇する者。」とあります。もし僕が国賊もの!(or非国民)といわれたとすると、そこに存在する関係性は、国家をひとつの境界線として、その国家の中で行われている議論であるとするならば、「1:僕」、「2:国家」、「3:僕を国賊もの(or非国民)と批判した方」、「4:僕と批判した方以外の国家に属する国民」の4者が考えられそうです。それぞれを一般化して「甲」「乙」「国家」「国民(甲乙以外)」としましょうか。

 さて、この関係性において、「国賊(or非国民)」というのは、「乙が自らによって構築された概念として、国家とはこうあるべきだという国家像に反した行為を行う者」であって、乙が甲に対しての「国賊(or非国民)である」という批判を行っている状況は、あくまでも、乙の描く国家像をベースにしているに過ぎません。いうならば、甲は甲が自らもつ国家像に準じて行っているだけで、その国家像に反した行為を行っていないと思っている可能性があります(もちろん、甲は自ら国賊と思っている可能性も一方ではあるわけですが。)。
 では、「国家像」というのはなんでしょうか。おそらくそれは、甲や乙といった個人が、自分以外の国民の多くがそう思っているであろう「義」を鑑みたもの、であるのではないでしょうか。もちろんそれが、民主主義的多数決によって、政治家として選ばれることで、その「義」を明らかなものにするというシステムも技術的には存在しますが、そういったシステムというよりも、より個人の解釈においての「義」をどれだけ多くの国民がもっているかを「鑑みたもの」が「国家像」としているような気がします。だから、「国民」の「義」の総和についての「甲または乙」による解釈を「甲または乙」にとっての「国家像」ということができるのではないでしょうか。

 国家は国民(個人)を多く内包しますから、真の「義」や「賊」を定量し結論付けることは不可能です。それは、実現不可能であると同時に、流動的であるために理論的にも動的に変化しているだろうからです。たとえば、Aさん、Bさん、Cさんから成り立つ組織Xの「義」と「賊」を考えた場合、Aさんが思う組織Xの「義」はAさんとBさんとCさんの総和です。Aさんの「義」はAさん本人の「義」ですから、間違いありませんが、AさんがBさんやCさんが「義」と思っているであろうことは誤解している可能性があります。そうすると、Aさんだけの「義または賊」の集計をすると、確実な「義または賊」が1つ、と不確実な「義または賊」が2つあります。そのように、Bさんについて、Cさんについても、すべての集計を理論的にすれば、3つの確実な「義または賊」と6つの不確実な「義または賊」によって、組織Xの「義または賊」が規定されます。もし、ここで多数決をとったとしても、組織Xの「義または賊」は、不確実な割合が50%を超えていますから、理論的にも、その組織Xの「義または賊」は導くことはできないでしょう。
ここで、AさんがAさん個人の「義」をBさんとCさんに訴えることで、Bさん、Cさんの「義」を確実に変化させれば、それは組織Xの「義」はもともとAさん個人の「義」であったものと一致しますが(これが政治なわけですが)、はたして、組織Xの「義」は「義」たりえるのかは、組織Xを内包するさらに大きな枠組の外部組織XXの「義」を参照するしかありません。


→「義」の定量は、「1、実行不可能である可能性が極限までに高い。(定量化のための社会負担コストが極めて高い)。」
→「義」の定量は、「2、ある上部ユニット(例:国家or会社)の全構成員(所属・下部ユニット:例:国民or社員)の「義」が過半数ルールのもとで決定されるシステムにおいては、理論的に常に「不確実」が「確実」な「義」の過半数を超えるため、いかなる状況でも「義」は不確実である。Num of 確実な「義」< Num of 不確実な「義」;2人だけで構成される上部ユニットである時だけイコールが成立。例:典型的民主主義」



すこし整理してみましょう。
まずは、「賊」の対極を「義」とおいて考えてみることにします。
さらに、「個人」によって構成される「組織」や「国家」が、その構成する「個人」によって「義」であることを選択されます。これに意を反する「個人」は「国賊」となります。これをさらに、一般化すると、「ユニットα」によって構成される「ユニットαα」が、その構成する「ユニットα」によって「義」であることを選択され、その「ユニットαα」に定義付けられた「義」に反する「ユニットα」を「ユニットαα」にっとっての「賊」であるとみなされます。
ここで、重要なことは、「ユニットα」は「ユニットββ」に移動すれば、または、「ユニットβ」は「ユニットαα」に移動すればそれぞれの「義」が一致する可能性があるということです。具体的に還元してみれば、あるアメリカ国民がアメリカ国家の義と反する場合、それは国賊でありますが、そのアメリカ国民がイギリス国家に移動(移民)したら、その義が一致し、イギリスにおけるイギリス国民として国賊でなくなる可能性があります。

 「ユニットα」と「ユニットβ」、「ユニットγ」・・・は並行の競争または協調関係にあり、また「ユニットαα」と「ユニットββ」・・・、さらにはその上位の「ユニットααα」と「ユニットβββ」・・・もそれぞれ並行の競争または協調関係にあります。それぞれに、上下関係と並行関係があります。「ユニットα」は「ユニットαα」に属しているかもしれませんし、「ユニットββ」に属しているかもしれません。さて、そのようなシミュレーションを組んで、「義」と「賊」について考えてみます。


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この図が、僕が考える、階層ユニットと賊&義の関係図です。階層(上下関係)にわけたことが重要でありまして、たとえば、個人のレベルで考えますと、よく天使と悪魔がささやいて・・・・などという文学的比喩が使われたりしますが、それが、「精神→個人」での「賊」と「義」であると思います。個人のなかに多種の、多様な精神をかかえているということですね。そして、その上に、組織(たとえば会社や仲間グループなど)があります。ここで、個人の義がその組織の義であるかが問題で、もし不一致であれば、その個人は「社賊」となります。国家レベルでは、国の「義」はその中の、組織や個人によって、たとえば民主主義であれば多数決などで、専制君主制であれば、君主によって「義」が決定されますが、これに反すれば、その組織や個人は「国賊」となるわけです。

 はてさて、このように考えますと、いまや、国家という国境よりも、宗教、民族、言語などなど、さらには、経済的境界などが多くフレームとして登場しますので、その上の階層ユニットが考えられるべきなのでは?と考えられ、そこで、提唱されるのが、「世義」と「世賊」です。
 「国」のレベルにとらわれていますと、とくにこの数百年の歴史のように、国家間での戦争が頻発するでしょう。ですから、いかにこの「世義」をみるかというのが重要で、これの役割を具体的に、便宜的にですが、担ってきたのが、一応の「国連」であります。
その「世義」をうまく働かせるシステムとしての「国連」があまり機能していない中で、議論を拡張すべきではありませんが、それでも、もはや「国賊」ということを議論するのは、ナンセンスであろうと僕は思うわけです。より上位の階層が「賊」であれば、下位の階層で「義」であっても、それは「賊」にすぎない。ジハードだろうと、十字軍だろうと、世界の警察だろうと、それぞれの「国義」は結局、歴史が判断するところの「世賊」であったわけです(同様に言えば、ある国の「国賊」というのは、国籍の関係がありますからあまり生じえませんが別の国での「国義」であるかもしれませんし、より強い意味でいえば国籍を問わず「世義」でありうるわけです。)。



----------結論----------
 僕が僕を国賊ともし今後批判する方がいらっしゃるならば、その方にいいたいことは、つまりこの2つです。
ひとつは、「国賊」であるという議論自体が、階層構造からして下位の「人義」総和の誤認または、上位の真の「義」である可能性があり、ナンセンスであるということ。
また、もうひとつは、「国義」か「国賊」かという真の答えについては、僕が国民として属する日本国においては、一応の民主主義を採用しているので、理論的に不確実な選択肢であること(総和の50%以上が不確実だから。)。
だから、僕はいいます。僕がどのような発言をしようとも「国賊」たりえません。

----------補足----------
さらに議論をすすめて、このロジックから発展させたいことは、一国の政治家たる者、職業としては「国義」と「世義」の狭間にいかに自らのポジションを確立するのかを踏まえるのは当然で、「国義」のみを掲げるべきではないということ。そして、政治家たる者、精神としては「宙義」ならびに「虚義」まで達すべきということ(ユニバーサルな「義」の不断なる探索)。



んー、なかなか、精神論的部分もあり、また、ロジックなところもあり、それは法律的でもありますが、結局政治として実行力をもって、決断がなされなければならない、、なかなか、難しいですが、チャレンジしがいのあることですね。こんなことをねじこじと考えているうちに、楽しくなってきてしまいました。そして、日本にどれだけ、そうした本質を「考えられる」ということではなく、「考えようとする」姿勢がある政治家がいるのかなぁと不安になってしまいました。

僕自身でいえば、当然、政治を目指すものとしては、日本の国益を考えて行動するわけですが、そうした行動が、何かあやまった解釈をされて、国賊や非国民などといわれることは、当然ながら、上記の理論から「予測・想定」されるわけです。あとは、たとえば、家族や友人達への「義」=「人義」や「社義」が、社会的役割としての政治家としての「国義」と一致しない場合、ものすごく悩むでしょうね。まぁ、しかし、これも乗り越えてこその政治家の「器(うつわ)」ですから、ひとつやってやろうじゃないですか!

所詮、形而上の話ではありますが、ひとつ、なにか、具体的な、精神のアイディアになる種になりそうな気もしますです。


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2010-03-19 14:25:47
柿の木からリンゴが落ちた
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 昨日、北京市内の大学に通う日本人留学生が他界いたしました。19日正午現在の情報では、自殺との見方のようです。

んー、まだ自殺と確定したわけではありませんが、若年層の自殺は、非常に同胞としてやるせない気持ちがあります。それは感情的な部分もありますが、僕の場合にはシステムエラーが引き起こした原因により目が行きます。たとえば、今回のケース、中国に留学をしているという何かしらの目的があって、その目的をつくった社会の複雑な原因がある。

「社会的な何らかの要因」→「中国留学の相対的メリット(主観・客観)」→「中国留学への個人的動機」→「中国留学の実践」というような簡単な相関関係があるわけですが、この「社会的な何らかの要因」は複雑でありますから、ここで語り尽くせるものではないですよね。でも、もし「中国留学の実践」→「中国留学中の自殺者の増加(日本での同年齢での自殺者割合よりも多く)」という相関が少なくともあるのであれば、その「社会的な何らかの要因」などの一部を操作して、その自殺への流れをとめなければならない。
 もちろん、自殺という行為にいたるまでには、「個人的本質要因」もからむので、「社会的な何らかの要因」だけに注力すべきではないけれども、「個人的本質要因」と「中国留学」が、「個人的本質要因」の割合少なく、そうではなくてそれらが化学反応をおこして、「自殺」にいたったのであれば、これは問題だなぁーと思います。

1、「中国留学」→「個人的本質要因」→「自殺」
2、「その他動的変数」→「個人的本質要因」→「自殺」
3、「中国留学」×(interaction)「個人的本質要因」→「自殺」

これら1~3のeffectはすべて、存在の可能性があるわけだけど、どのeffectが最も大きなインパクトを与えているのかが重要ということですよね。
ここから考えられる議論されるべきテーマは、すべての定量的統計データで「自殺(中国留学の日本人留学生)↑」であるときに、「中国留学」の変動であるわけです。もし「中国留学↓」ならば、逆の相関があるわけですし、interactionならば、より複雑に「個人的本質要因」を特定しなければならない。それでも「中国留学生数」と「留学生自殺者数」というのは定量できるはずなので、おおまかな指標は作れるのではないかと思います(年齢・性別・教育状況・家庭の経済力など社会学的要因をcontrolして、corr.やregressionをチェックします。)。

しかし、自殺にからんでしまうと、定量化の問題は大きくて難しいですね~。というのも、たとえば、「心理的ストレス」が100になったところで、ひとりのひとが自殺をすると仮定しますと、

「要因A」5上昇→「心理ストレス」10上昇
「要因B」5上昇→「心理ストレス」30上昇

では、「要因A」と「要因B」の問題性はまったく異なるわけですが、もしある方の初期値の「心理ストレス」が20だったとすれば、「要因A」と「要因B」がひとつだけもしくは万が一同時に発生したとしても、100に達成せず、「自殺」にいたらないわけです。そうすると、定量化できない。つまり、「心理ストレス」は連続的(numeral)な変数であるのに、自殺はダミー変数(0か1のdummy変数)なわけですね。

「要因A」5上昇→「心理ストレス」10上昇→「自殺するしない」0or1
「要因B」5上昇→「心理ストレス」30上昇→「自殺するしない」0or1

これは、理論的には可能な関係性を証明できますが、定量するときに、莫大なサンプル量が必要になります。つまり、今回の中国留学生の自殺事件に関連させると、数名の自殺者にすぎなくて、つまりは、定量化が極めて困難になるわけです。すなわち、「要因」が特定できないんですよね。(むしろ恣意性が入ったとしても、心理カウンセラーによる「心理ストレス」段階での定量化のほうが楽なはずです。)

 

 むむー、感情的にも後味悪いですし、理論的にもその要因特定が難しいものとなりました。
故人のご冥福をお祈りいたします。


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